最高裁判所第一小法廷 平成元年(オ)1400号 判決 1993年9月09日
上告人
有吉新吾
同
鹿野達三
同
松川誠治
同
大沢誠一
同
小松原俊一
同
野口喜次郎
右六名訴訟代理人弁護士
鈴木竹雄
長谷部茂吉
青山義武
春田政義
田代有嗣
被上告人
水野隆
右訴訟代理人弁護士
右田堯雄
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人らの負担とする。
理由
一上告代理人鈴木竹雄、同長谷部茂吉、同青山義武、同春田政義、同田代有嗣の上告理由第一点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、被上告人の本件訴訟の提起が権利の濫用に当たるものではないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、原審の認定しない事実を交え、独自の見解に立って原判決を非難するものにすぎず、採用することができない。
二同第二点について
甲株式会社が同社のすべての発行済み株式を有する乙株式会社の株式を取得することは、商法(昭和五六年法律第七四号による改正前のもの)二一〇条に定める除外事由のある場合又はそれが無償によるものであるなど特段の事情のある場合を除き、同条により許されないものと解すべきである。けだし、このような甲株式会社による乙株式会社の株式の取得は、乙株式会社が自社の株式を取得する場合と同様の弊害を生じるおそれがある上、このような株式の取得を禁止しないと、同条の規制が右の関係にある甲株式会社を利用することにより潜脱されるおそれがあるからである。
これと同旨の見解に立って、本件株式の取得が同条に違反するとした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。
三同第三点及び第四点について
1 原審の適法に確定した事実関係の要旨は、(一) 三井鉱山株式会社(以下「三井鉱山」という。)は、昭和五〇年当時、三井三池開発株式会社(以下「三池開発」という。)のすべての発行済み株式を有していた、(二) 三井鉱山は、同年一二月三日、三池開発に対して、戸栗亨の有する三井鉱山株式一五五〇万株(以下「本件株式」という。)を同人の要求する価格で買い取った上、三井鉱山の関連会社に戸栗からの買入れ価格よりも低い価格で売り渡すことを指示した、(三) 三池開発は、右指示に従い、同月二五日、戸栗との間で、本件株式について代金を八二億一五〇〇万円とする売買契約を締結し、契約と同時に株券の引渡しを受け、昭和五一年一一月三〇日までに代金全額を支払い、同年一月から三月にかけて、本件株式を複数の三井鉱山の関連会社に対して代金合計四六億六三四〇万円で売り渡した、というのである。
2 以上の事実関係によれば、三池開発の資産は、本件株式の買入価格八二億一五〇〇万円と売渡価格四六億六三四〇万円との差額に相当する三五億五一六〇万円減少しているのであるから、他に特段の主張立証のない本件においては、三池開発の全株式を有する三井鉱山は同額に相当する資産の減少を来しこれと同額の損害を受けたものというべきである。また、三井鉱山の受けた右損害と三池開発が本件株式を取得したこととの間に相当因果関係があることも明らかである。したがって、本件株式の取得により三井鉱山が三五億五一六〇万円の損害を受けたとする原審の判断は、結論において是認することができる。論旨は、独自の見解に立って原判決を非難するものにすぎず、採用することができない。
四同第五点について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らして首肯するに足り、右事実関係の下においては、上告人らの主張する利益は本件株式の取得との間に相当因果関係がないから三井鉱山の損害から控除すべきでないとした原審の判断は、正当として是認することができる。原判決に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立って原判決を非難するものにすぎず、採用することができない。
五上告人有吉新吾の上告理由について
原審の適法に確定した事実関係の下においては、所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、独自の見解に立って原判決を非難するものにすぎず、採用することができない。
六よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官味村治 裁判官大堀誠一 裁判官小野幹雄 裁判官三好達 裁判官大白勝)
上告人有吉新吾の上告理由
一 訴外三井鉱山株式会社(以下訴外会社という)は、戦前は三井物産、三井銀行と並ぶ三井系の名門企業でありましたが、昭和二七、八年頃から始まったエネルギー流体化革命以降、石炭業界は斜陽化の一途を辿ることになりました。そこで、訴外会社は、石炭に代わる事業を興すため、昭和三二年一月にはセメント工場建設部を設置し、日本セメントの技術的協力のもとに工場建設を進めることについて事業計画を立て、幹事銀行の三井銀行に相談しましたところ、三井銀行としては、三井グループの一員として小野田セメントがあり、その実力者安藤豊禄氏と三井銀行社長佐藤喜一郎氏は学生時代から一緒だという関係もあって、やるなら小野田セメントの協力のもとにやるべきだ、しかし、同じ三井グループの中に二つのセメント会社が出来て競争することはマイナスだということで、その了承を得ることはできませんでした。
二 ところが、昭和三七年ころには田川炭鉱の閉山が決まり、政府としても産炭地政策の手をうたねばならなくなり、福岡県からも地域振興政策として訴外会社にセメント工場建設の慫慂があったりして、外部環境にも大きな変化が生じましたので、三井銀行も漸く御輿をあげ、小野田セメントとの間を調整してセメント事業を推進することに同意したのであります。しかし、訴外会社の希望するようにこれを同社直営の工場とすることには問題があるとし、グループによる別会社とすることで三井セメント株式会社(以下三井セメントという)を田川に作ることが決まったのであります。訴外会社としては将来これを合併して同社の一事業所としたい考えでありましたので、三井セメントの出資比率もそのような配分を期待したのでありますが、三井銀行が調整役となって決定した出資比率は、訴外会社が二八%、小野田セメントが26.7%、三井物産が一六%であり、その余の三井グループの一一社が29.3%ということでありました。
ただ、人員については、専門技術役職員を除き、あとは建前として訴外会社の役職員を充当することになりましたが、販売については小野田セメントのドラゴン・マークによることとし、また、立地についても、訴外会社が所有していた福岡県田川郡香春町所在の香春三の岳石灰石鉱区の附属地よりも小野田セメント所有の福岡県田川市所在の関の山鉱区の附属地に工場を建設した方が用地も広く、鉄道輸送その他から有利であるということで、訴外会社案は否決され、関の山に立地して工場を建設し、セメントの原料である石灰石も小野田セメントの関の山石灰石を租鉱させてもらうことに決定しました。三井銀行としては、苦心の調整であったのでありましょうが、小野田セメントとしては、販売面において新会社を自社の統制下に入れることができ、セメント生産についても原石は小野田セメントの山から供給するということに成功して、別会社としてスタートさせたとはいえ、三井セメントの工場は実質的には小野田セメントの分工場にしたという満足感をもたれたと思います。これに反して、訴外会社としては、筆頭株主で社長以下幹部職員は殆ど訴外会社出身とはいえ、技術面では当面小野田セメントに頼らざるを得ず、販売面においても小野田セメントの一工場的処遇に甘んじなければならず、こと志と違った結果になってしまったという思いが強かったのであります。
この新会社三井セメントは、昭和三八年六月資本金七億五、〇〇〇万円でスタートしたのでありますが、その後新鋭設備を導入し、訴外会社の技術陣によって立派に運営されるようになり、経営も順調に進展して、昭和四一年から黒字になり、昭和四五年から配当を開始し、昭和四八年上期には、一割配当をするに至りました。
三 こうした状況の中で、訴外会社において、セメントに次ぐ第二の柱として検討の対象としたのが、高炉用コークスすなわち製鉄に使用するコークス事業でありました。
それは、一つには、訴外会社が資源会社として海外各地の資源調査に携る過程において、コンサルタントとして高い評価を受け、それがきっかけで昭和四三年にカイザー・スチール社との間に、カナダのバルマー炭鉱の開発に訴外会社が実施している水力採炭方式を採用することで技術援助協定が成立し、カナダの良質原料炭を訴外会社の責任で供給できる見通しが立っていたことによるのであります。これは、当時鉄鋼増産に伴い良質原料炭入手に熱心であった日本の鉄鋼各社にとって魅力ある条件の一つであったのであります。
他方、訴外会社は、一般用でありましたが、三池炭を原料としてコークス製造を続けて来ており、その技術は三井化学、三池コークスを経て訴外会社の指揮下に温存されておりましたので、昭和四三年秋頃、当時高炉増設を計画中の各社に対しコークスの委託製造をやらせてもらえないか申込みをしましたところ、戸畑へ集約を計画中の新日鐡八幡製鉄所との間に、戸畑の対岸響灘埋立地に訴外会社においてコークス四炉団、年産二四〇万屯のコークス工場をつくり、その四分の三を海底沈埋管を通して新日鐡八幡製鉄所戸畑工場に供給する旨の長期供給協定が成立したのであります。
これに基づいて、昭和四五年五月、三井鉱山コークス工業株式会社(以下三井鉱山コークスという)が設立され、響灘の炉団建設は、第一炉団四六門が昭和四八年一月から、第二炉団四六門が翌四九年一月からそれぞれ製品押出しを開始し、昭和五〇年夏には第三炉団五四門が略々竣工の段階にありました。第四炉団五四門は折からの鉄鋼の一時的不況で着工が延び、昭和五五年になって完成しております。
四 私は、昭和三七年一一月に訴外会社の常務取締役に就任し、経理関係のほか企画・関連事業を担当し、三井セメントの設立についても直接関係して参りました。前記のように、同社の設立はこと志と違った結果となりましたので、同社の合併問題は後日を期し、訴外会社の態勢を整備するしかないと新たな事業展開に向けて努力を傾注していたのであります。そして、私は、三井鉱山コークス設立の頃から、同社の吸収合併、及び、それに先立って三井セメントの合併を何とか実現させたということを考えたのであります。そこで、私が訴外会社の社長に就任した翌年四八年、私は、石灰部門の分離、別会社化を実現に移しました。
それは、石灰が政策産業で大きく政府の助成金に依存しており、したがって石灰とそれ以外の経理を分別経理せよという政府の指示が前々からあり、その要請に応えるという意味もあったのですが、より本質的には、政府の助成金をうけていてはあらゆる面で政府の監督規制をうけ、新規投資もいちいち政府の許可をうけなければやれないといった制約がある。さらに、仮にセメントとかコークス事業を取込んでその部門から相当の利益を出しても、石炭を抱えている限り焼石に水で、全部石炭の赤字の穴埋めに使われてなお赤字が残る、それでは何年経っても訴外会社の立直りは出来ない、幸に石炭は政策産業で連結決算の必要がない、セメントとかコークス事業を取込んで訴外会社の再建を図るには石炭を切離す必要がある、というふうに考えたのであります。これは、どこの石炭会社も同じで、当時三菱鉱業、太平洋炭鉱は既に分離を実行ずみでありましたし、訴外会社のあとに続いて松島炭鉱、住友石炭鉱業も分離を実行しました。
五 三井セメントの合併については、如何なる場合でも小野田セメントが反対するであろうということは分っておりましたし、一方、三井物産はじめ三井銀行以外の三井グループの株主は、訴外会社も大分見通しがついて来たし、三井セメント設立の当初のいきさつからしても三井セメントの訴外会社への合併は当然であろうという意向であることも分っておりました。ただ、三井銀行は、従来の調整役の立場から、訴外会社のことも考えてやらなければならないが、他方、小野田セメントが強硬に反対するのを押切ってやるのもどうかという立場であったと思われます。もう一つ、三井セメントの役職員がどう考えるかという問題ですが、三井セメントの役職員の殆どは訴外会社から行った人達ですけれども、役員としては、合併したら自分達の身分はどうなるかという心配があったでしょうし、職員としては、訴外会社はほんとうに立直るであろうかという心配があったと思われます。
これらのことを念頭に置きながら、私は、響灘第三炉団がほぼ出来上った昭和五〇年八月、三井銀行の小山社長を訪ねました。私は小山社長に、「響灘でのコークス事業もこれで大体軌道に乗った。このコークス事業を完成の暁に取込んで訴外会社の柱の一つにすれば、三井セメントの人達が心配するようなことはない、石炭分離も既にすんでいる。小野田セメントとは三井セメントを合併しても巧く協調してやってゆく。訴外会社もここまで来たのだから、ここは一つ三井セメント合併について決断してほしい。」と頼み込んだのであります。小山社長もその少し前、九州に出張した折両工場を見られたそうで、「いや分った。あんな立派な工場になっているとは驚いた。合併に協力するよ。」という話になりましたので、その直後、私は三井セメントの社長以下に会って話をつけ、小野田セメントは反対されましたけれども結局渋々ながら合併を諒承されましたので、その後具体的な訴外会社、三井セメント両社間の合併手続に進んだのであります。
六 戸栗亨氏が訴外会社の株主名簿に名前を現わしたのは昭和四八年頃からといわれておりますが、戸栗氏は毎総会の前に顔を出しまして、「私は炭鉱の経営のことは何も分からないし、口出しする気はない。安かったから資産として買っただけのことだ。」といって何も言わずに総務部に委任状を渡してくれていたのであります。しかし、私は、今度は三井セメントの合併という大きな問題でありますから事前に諒解をとっておく必要があると思い、昭和五〇年一〇月二日、戸栗氏に来てもらい事の経緯を話しましたところ、戸栗氏は、「会社がよくなるということなら結構じゃないですか。私は有吉社長を信頼しておりますよ。しっかりおやりください。」と諒承の言葉とともに激励までして帰られたので、私は大いに安堵して担当者にもその旨を伝えておいたのであります。
それが一一月二五日になって、戸栗氏は突然訴外会社の野口総務部長を訪ね、「前に有吉社長に賛成すると申しあげたが、その後友人に相談したところ、合併したら君の持株シェアーは減って今までのような発言権はなくなるよ、と忠告されたからあの話は取り消す。私は賛成できない。」ということになったのであります。そこで、私は、前総務部長で戸栗氏と付合の長かった柏原顧問をして戸栗氏説得に当たらせたのでありますすが、戸栗氏は説得に応ずる気はなく、「不賛成の私の意思は変らない。もし合併がやりたいのなら私の株を買取って欲しい。しかも年内に実行してほしい。」という要求であったのであります。訴外会社としては、安定株主は一〇数%しかなく、当時二四%の株式を保有していた戸栗氏を反対に回しては特別決議を成立させる目途はない。そうなると、三井セメントの合併が不可能になるのは当然として、同じ理由で将来の三井鉱山コークスの合併もまた不可能になるわけで、長年にわたって会社の再建に営々と努力し、各種難関を漸く突破して今や待望の経営路線を実行に移そうという段階に来て、一株主の自己の発言権が薄くなるというだけの理由による反対によって凡てが烏有に帰すということは何としても忍びがたい。一般の株主、債権者、従業員及びその家族のためにもこの合併はやりとげなければならない。このまま座して死を待つというわけにはゆかないというのが、その時の私どもの気持であり、判断でありました。
第一審判決は、右合併を遂行しなければ訴外会社が倒産必至であったわけではないから、戸栗に対する地道な説得作業を続けるか、後日を期すべきであったなどと述べておりますが、説得で納得してもらえる相手なら最初から問題はなかったのであり、また、荏苒時期を延ばしても、戸栗氏の株が始末されない限り何等事態の改善は望めず、訴外会社はヂリ貧を辿り、三井セメント、三井鉱山コークスの合併は何時まで待っても期待できないのでありまして、この事態打開の道は、結局戸栗氏の所有株を何等かの方法で始末をつけること以外にはなかったのであります。
しかしながら、戸栗氏の言うように、同氏の持株を訴外会社が買取るわけにはゆかない。方法としては、訴外会社がその売却を斡旋するしかないわけでありますが、戸栗氏の要求するような高値で買ってくれる人はもちろんいるはずがない。しかも、一ケ月という限られた期間内に一、五〇〇万株からの株式を斡旋することは不可能である。やむを得ざる方法として申出株式全株を一応訴外会社の子会社に一括買取らせ、三井銀行の協力を得てなるべく短期間に、おそくとも明年三月までに三井グループその他にその時点の株価を基準として斡旋売却する。こういう処置を決心したのであります。もちろん、子会社に買取らせた株価と斡旋売却した株価との差額は最終的には子会社三井三池開発の負担になることは自明のことでありますが、これによって、三井セメント、続いて三井鉱山コークスの合併が実現すれば、それによって得られる物的、心的、両面にわたる利益は斡旋により生ずる差損より遥かに大きいことを確信しておりましたし、事実そのことはその後の実績が示すとおりであります。私は、私どもが下した判断は正しかったと思っております。また、それは一般株主、債権者、従業員の皆様方のためにも利益であった、喜んでもらえる処置であったと確信いたしております。
被上告人は、右株式の斡旋売却がすんでから二年もたって、訴訟を起こすために訴外会社の株式一、〇〇〇株を取得し、本件訴訟に及んだものと聞いておりますが、一、〇〇〇株といえば現在の一単位株であります。本件訴訟が当時からの株主によって提起されたのであればまだしも、取引終了後二年もたって訴訟を起こすために株式を取得した一単位株主から本件のような訴によって責任を追及されますことは、私にとって極めて心外なことであります。
なお、一件落着いたしました昭和五〇年の暮、戸栗氏が私のところに見えまして、「いろいろなご心労をかけました。私の口から言うのはおかしいが、あなたは訴外会社の功労者ですよ、三井セメントとの合併の成就もさることながら、これで一挙に訴外会社の株主安定化が達成されたんですから。」との挨拶がありましたことも参考までに申し添えます。
上告代理人鈴木竹雄、同長谷部茂吉、同青山義武、同春田政義、同田代有嗣の上告理由
第一点 原判決は、権利濫用の法理を誤解した違法がある。
一 原判決は、理由二2において、株主代表訴訟の提起が権利の濫用に当たるか否かの判断は慎重になされなければならないのであって、当該代表訴訟の提起が徒らに会社ないしその取締役を恫喝し困惑させることに重点を置いたものであって、結局それによって会社から金銭を喝取するなど不当な個人的利益を獲得する意図に基づくものであるとか、当該代表訴訟によって追及しようとする取締役の違法事由が軽微またはかなり古い過去のものであるとともに、その違法行為によって会社に生じた損害も甚だ少額であって、今更その取締役の責任を追及するほどの合理性、必要性に乏しく、結局会社ないし取締役に対する不当な嫌がらせを主眼としたものであるなどの特段の事情のある場合に限り、これを株主権の濫用として排斥すれば足りるものとし、被上告人による本訴の提起については、このような特段の事情があるとはいえないし、その他に本訴の提起が権利の濫用に当たるとすべき事由を認めるに足りる証拠はない旨判示するのであるが、理由がない。
二 原判決も認めているように、被上告人は、企業コンサルタント業、金融業等を営む株式会社叶の代表取締役であったところ、報道機関による報道等を通じて戸栗所有の三井鉱山株式会社(以下訴外会社という)株式の買取り及び同株式の三井グループ会社等への売渡しが行われたことを知り、その後右買取りの際に振出されたとみられる約束手形を見聞するに及んで昭和五二年ころからその事実関係の調査を開始し、右買取り及び売渡しが行われてから二年も経過した昭和五三年三月三〇日ころ本訴を提起するために訴外会社株式一、〇〇〇株を取得し、株主代表訴訟の前提手続の完了をまって直ちに本訴を提起しているのである。原判決は、被上告人は当初から本訴を提起するために訴外会社の株式を取得したふしが窺われるなどと述べているが、右事実及び原判決の認定する事情からすれば、被上告人が本訴を提起するために訴外会社の株式を取得したことは極めて明白であって、ふしが窺われるなどという程度にとどまるものではない。そのうえ、被上告人は、本件訴を提起するにあたっては、「訴訟になれば自分の名が売れ、顧問料が高くなる。三井各社の社長を証人として引っ張り出すと三井鉱山も困るだろう。会社の方は大三井だから負けたら大変だろうが、私は蚤のような存在だから負けてもともとだ」と発言し、本訴提起に際しては、「三井鉱山株式会社のために商法第二六七条(株主の代表訴訟)の訴を提起する趣旨について」と題する被上告人の名前入りの文書等を新聞その他の報道機関、大株主、東京証券取引所、商法学者その他各方面に送付しているのである。
以上の事実からみれば、被上告人の行為が濫訴健訟を禁止した信託法一一条の精神に反することは明白であり、本訴は、原判決理由二2にいうように、「一方では会社の権利の実現をはかるとともに、他方では自己の名前の広がることを望んで」提起されたという程度のものでは断じてない。被上告人の本訴提起の真の意図は、会社の権利の実現をはかるということそのことにはなく(被上告人にとっては、そんなことはどうでもよかった。この訴訟に勝っても、被上告人には直接の利益は何もない。)、一にもっぱら被上告人の売名と宣伝広告にあったことは極めて明白といわなければならない。
三 およそ、裁判は正義の実現をはかることを目的とする。法の機械的適用により正義が蹂躙されては、裁判はその意義を失うのである。上告人らは一に会社の将来を思い、その発展ひいては全株主の利益のため一たん訴外会社株式を子会社に買取らせ、これを同じ三井系の会社として訴外会社の発展を希求してくれる各社に分散保持してもらったのであって、その所為は一に訴外会社ひいては全株主の利益のためであり、些かも上告人らの私利私欲によるものではない。しかも、その株式取得は訴外会社がこれを利用してなんらかの利益を獲得するためにしたものではなく、たんに系列会社に保有してもらうための手段的のものであって、これを商法二一〇条違反の取得といえないものではないかとさえ疑われる所為なのである。この上告人らの行為を、原判決も認めているように、事件発生後二年後に株式を取得し、直接にも間接にも何の損害も被っていない被上告人が、何のために僅か一、〇〇〇株、現在の基準でいえば一単位株を取得して責任追及の訴まで起して非難しようとするのであろうか。その訴の提起が権利の濫用に当たることは、あまりにも明らかであるといわなければならない。
四 原判決は、前記のように、本訴提起が権利濫用であるとするためには、訴の提起が徒らに会社ないし取締役を恫喝し困惑させることに重点を置き、これによって会社から金銭を喝取するなど、不当な個人的利益を獲得する意図に基づくとか、取締役の違法事由が軽微またはかなり古い過去のものであるとともに、会社に生じた損害が少額であって、今更取締役の責任を追及するほどの合理性、必要性に乏しく、結局会社ないし取締役に対する不当な嫌がらせを主眼としたものである等の事情がある場合に限る旨判示している。この判示に対しては、とりたてて異論を挿む必要もないが、本件訴がマスコミ等に喧伝することによって会社ないし上告人らを恫喝する一方、被上告人自身の名が売れるとか顧問料が高くなる等の自己の利益をはかるための訴であることからすれば、本判示によっても本訴が権利濫用に当たる訴であるといわなければならないであろう。確かに被上告人は訴外会社ないし上告人らから金銭を喝取していない。しかし、「自己の名が売れ、顧問料が高くなる」ことは、被上告人の企図した利益であって、その利益をうるため本訴を提起し、これによって会社ないし上告人らの所為を自己株式取得により損害を与えた行為であると喧伝して会社ないし上告人らを恫喝ないし困惑させた意味において、右前段の説示の要件に合致するといわなければならない。また、被上告人が、事件発生後二年も経過してから僅か一、〇〇〇株の株式を取得し、会社ないし上告人らが本件株式を三井系各社に引取らせた結果生じた三井セメントとの合併の成就、その後の三井鉱山コークスとの合併その他諸々の施策の円滑な遂行等有形無形の利益に全く眼を覆い、株式の取得価格と処分価格との差額のみを取り上げて本訴を提起したのは、上告人らに形式上自己株式取得の違法行為があったとしても、実質的にはその違法性を疑わせるほどの軽微なもので、これにより結局会社に莫大な有形無形の利益をもたらしたといえても、なんら損害を与えたことにはならないか、少なくとも取得価格と処分価格との差損と右の利益とを総合して損害の有無を決すべきで、その結果は結局会社に対し利益を与えたといえても、損害を与えたとはいえないというべきにかかわらず、事件発生後二年も経過してから僅か一、〇〇〇株の株を取得して会社ないし上告人らに不当な嫌がらせをして自らの名を喧伝しようとしたものというのほかなく、本訴は前記判示後段によっても権利の濫用によるものといわなければならない。
しかるに、原判決は、権利濫用の要件をあまりにも狭く解して、権利濫用に基づく本訴を敢えて適法な訴と判断した違法を犯したばかりでなく、原判決の付加した権利濫用に当たる訴の要件事実たる「特段の事情」からすれば、前記のごとく本訴は正に権利濫用の訴の要件事実も充足しているというべきにかかわらず、これを否定した原判決には、理由齟齬の違法があるというのほかなく、いずれにせよ破棄を免れないものといわなければならない。
第二点 原判決は、商法二一〇条(昭和五六年法律第七四号による改正前の規定。以下、同じ)の解釈を誤った違法がある。
(自己株式取得に該当するとの原判決の判断の誤りについて)
一 原判決は、理由三3(一)及び(二)において、一〇〇%子会社が親会社の株式を取得した場合には、商法二一〇条の法意及び昭和五六年法律第七四号による改正の経緯からして同条にいう自己株式の取得に当たる旨判示するのであるが、全く理由がない。
原判決も認めているように、一〇〇%子会社の場合であっても、子会社が親会社と別個の法人格を有することはいうまでもないのであるから、法文の形式上、同子会社が親会社の株式を取得することが商法二一〇条にいう自己株式の取得に当たらないことは極めて明白であって、原判決のいうように、契約の実態としては訴外会社自身が契約者としてみるべきであり、三池開発による本件株式取得は親会社である訴外会社自身による自己株式の取得と同視しうるなどという論法によってこれを自己株式の取得に当るとすることはできない。このことは、昭和五六年法律第七四号による法律改正の経緯及び形式をみればいっそう明白である。
二 本件における親会社株式の取得は右商法改正前の問題であり、子会社による親会社株式の取得は、右改正において商法二一一条の二の規定が新設されたことによって初めて禁止されることになったのである。そして、同改正の附則四条は、この法律施行の際改正後の商法二一一条の二に規定する子会社が同条に規定する親会社の株式を有しているときは、その子会社は相当の時期にその株式を処分しなければならない旨規定し、改正後の商法二一一条の二に当る子会社が改正前に親会社の株式を取得していたことがあっても、これを当然のこととして違法視していない。
しかして、改正後の商法二一一条の二の規定によれば、親会社とは他の株式会社の発行済株式の総数の過半数に当る株式を有する会社をいうのであるが、一〇〇%子会社といえども親会社が発行済株式の総数の過半数に当る株式を有することに何ら変わりはないのであるから、右改正の際一〇〇%子会社が有していた親会社の株式についても附則四条の規定が適用されることはいうまでもない。
また、当時施行されていた昭和五七年法務省令第二五号による改正前の旧計算書類規則二三条二項によれば、子会社の有する親会社の株式は他の株式又は持分と区別して投資の部に記載しなければならないことになっていたのであるが、計算書類規則にこのような定めが存したこと自体、子会社による親会社の株式取得が違法視されていなかったことの何よりの証拠である。
三 現行商法二一一条の二は、親子会社の認定基準として、他の株式会社の発行済株式総数の過半数に当る株式を有する株式会社を親会社、他の会社を子会社としているのであるが、このような親子会社の認定基準は、昭和四九年法律第二一号による改正において、監査役の子会社調査権を新設するに際して商法二七四条の三に規定されたのが最初である。
一〇〇%子会社の場合であっても、監査役に権利としての子会社調査権が認められたのが、右改正によって商法二七四条の三の規定が新設されたことによるものであったことからすれば、一〇〇%子会社による親会社株式の取得制限も、昭和五六年改正によって商法二一一条の二の規定が新設されたことによって初めて認められたものと解すべきである。
四 原判決は、商法二一〇条違反に対しては四八九条二号により刑事罰の定めがあることをもって、一〇〇%子会社による親会社株式の取得を自己株式の取得と解すべきことの論拠としているのであるが、全く的外れの議論である。本件について商法四八九条二号の適用があるためには、それが、会社の計算において、不正になされたものでなければならないことはいうまでもない。しかして、会社の計算においてとは、対価の支払が会社の負担となり、損益が会社に帰属することをいうのであるが(注釈会社法(8)9のⅡ三九八頁)、本件訴外会社株式取得の対価の支払は三池開発の負担においてなされ、その損失は三池開発に帰属しているのであるから、三池開発による訴外会社株式の取得が親会社である訴外会社の計算においてなされたものでないことは明白であって(この点は後記第三点においてさらに詳述する)、この点だけからみても本件が商法四八九条二号の構成要件に該当しないことは明白である。そのうえ、同号の適用があるためには株式の取得が不正になされなければならないのであり、二一〇条に掲げる例外に該当する場合のほかにも、実質的に正当な理由があれば、私法上は有効とされなくても四八九条二号の関係では刑罰に値するだけの違法行為とはいえないとされているのであるが(前掲書参照)、有吉上告理由書に詳述されている事情の下になされた本件訴外会社株式の取得は正当な理由があるものであって、この点からしても同号の構成要件には該当しないというべきである。
したがって、原判決のいうように、三池開発による訴外会社株式の取得は、訴外会社自身による自己株式の取得と同視し得るなどという論法をもって四八九条二号の刑事責任を追及することは全く不可能である。
五 昭和五六年法律第七四号による改正後の現行商法の規定によれば、商法二一〇条違反の行為に対しては商法四八九条二号の罰則規定の適用があるが、商法二一一条の二の一項違反の行為に対しては商法四九八条一項一二の二号の過料の規定が適用されるにすぎない。
商法二一一条の二違反に対する制裁の方が商法二一〇条違反に対するものより軽いのは、親会社株式の取得により必ずしも子会社の会社財産が危うくなるわけではないからであるといわれているのであるが(竹内昭夫著、改正会社法解説(新版)八八頁)、一〇〇%子会社であっても商法二一一条の二の子会社に該当することに変わりがないことからみれば、その違反に対しては過料の規定しか適用されないものというべきである。そして、一〇〇%子会社による親会社株式の取得を刑事罰の対象となし得ないことは、昭和五六年改正前においても同様であったというべきであるから、商法二一〇条違反に対し処罰規定が設けられているということが、一〇〇%子会社による親会社株式取得を禁止する理由となり得ないことはいうまでもない。したがって、原判決が、一〇〇%子会社による親会社株式取得の問題について、商法四八九条二号の罰則規定の存在を立論の根拠とするのは誤りというべきである。
以上の次第で、昭和五六年改正前においては、一〇〇%子会社による親会社株式の取得は許されていたと解すべきであって、これを商法二一〇条違反と解すべき余地は全くないものといわなければならない。
六 そのうえ、原判決は、三池開発に生じた資産の減少について、これを親会社の損害であるとし(この点については、後記第三点において詳述する。)、訴外会社に対して損害を賠償すべきことを命じているのであるが、そのようなことは、現行の商法二一一条の二の解釈と対比しても許されないものというべきである。
一〇〇%子会社の場合であっても、子会社が親会社と別個独立の法人格を有することに変りはないのであるから、子会社に対し親会社とは関係のない独自の債権者が生ずることは避けることができない。現行商法が二一一条の二において子会社による親会社株式の取得を禁止する背後には、株式の相互保有に伴う資本の空洞化の弊害があるとされているのであるが、その場合の空洞化は、単に親会社のみならず子会社についても等しく問題とされるべき筋合いのものである。けだし、資本の空洞化の影響を受けるのが債権者である以上、子会社債権者への影響を不問に付し、親会社債権者の保護のみをはかるというのでは片手落ちの議論でしかないからである。
原判決は、子会社の損害を親会社の損害と同一視する点で子会社の法人格を実質的に否認する誤りを犯したばかりか、その判示をつきつめてゆけば、親会社の資産さえ充実させれば子会社の資産はどうなってもよいということになるのであって、そこでは子会社債権者の利益に対する配慮は全く欠落することになるのである。このような判示が不当であることは改めて説明するまでもないのであり、子会社の資産減少によって生じた損害を回復すべき相手方は子会社であって親会社ではないといわなければならない。
よって、本訴はこの点からしても理由がないものというべきである。
(自己株式取得に該当するとしても、商法二一〇条の法意に反せず、実質的違法性を欠くことについて)
七 仮に本件が商法二一〇条の自己株式取得に当るとしても、同条の法意に反せず、実質的違法性はない。
自己株式の取得を禁止するか否かは一に立法政策の問題であるが、政策的にこれを禁止する理由としては、原判決も指摘するように、通常次の四点があげられている。
(1) 会社資本の充実を害する。
(2) 相場操縦の危険をもたらしやすい。
(3) 株主平等の原則に反する。
(4) 取締役による会社支配の手段として悪用される。
しかし、(1)は、本件取得対価の原資が訴外会社または子会社である三池開発の資本に食い込んでいるわけではなく、(2)も、本件取引は市場外取引であるから相場操縦の問題は生ぜず、(4)も、有吉上告理由書に詳述されている事情(同理由書に記載されている経緯は、証人柏原宏平の第一審証言、上告人有吉新吾の原審供述、<書証番号略>(財界)等によってこれを認めることができる。)のもとでなされた本件取引は、上告人らの個人的利害に出たものでないことは明白であるから、(1)(2)(4)は全く問題がない。(3)は、本件取引に続く三井セメント、三井鉱山コークスの合併によって得られた物心両面に亘る利益が本件取引によって生じた資産の減少を上廻るものであり、これに対して在来株主から何らの文句も出ていないことからすれば、実質的に問題はないものというべきである。
したがって、上告人らが三池開発に訴外会社株式を一時取得させたことは、自己株式の取得を禁止した商法二一〇条の法意に反するものではないというべきである。
八 上告人らが三池開発に訴外会社株式を買い取らせたのは、三井系各社にこれを引取ってもらうためであって、自己株式を取得して株主権を行使する等違法の目的でしたものではない。このように、三井系各社に引取ってもらう前提で自己株式を一時取得した行為をも商法二一〇条違反の行為と見るのは、あまりにも形式論的な見解というべきである。もし、訴外会社が三井系各社に本件株式を引取ってもらうために、右の各社に買取資金を貸与し、その資金で各社が本件株式を取得したとしたら、これをもって自己株式取得として論議するに由ないはずであるが、本件の場合もこれと実質的に同様であり、形の上で自己株式を一時取得したというだけで、この場合を自己株式取得違反と見るのは、形式論に過ぎると思われる。問題は、株式引取代金が三井系各社への処分代金を上回ったことであるが、これも、訴外会社が三井系各社に依頼して戸栗の希望価格で訴外会社株式を買取ってもらい、時価と買取価格との差額を後日訴外会社から三井系各社に補填した場合と同様に考えればよく、自己株式取得の違法と係りはないものといわなければならない。これを要するに、他に移転する目的で一たん自己株式を取得し、これを予定どおり直ちに移転した場合は、自己株式取得自体になんらの意味はないから、これをもって商法二一〇条違反の問題を生じないと解すべきである。
原判決は、前述のように商法四八九条二号の趣旨を誤解して援用し、商法二一〇条の例外は厳格に解すべきで、本件のような自己株式取得の場合にまでこれを拡張して解すべきでないとしている。しかし、昭和五六年の法改正において経済界の自己株式取得禁止についての緩和要望にかかわらず、これに副う規制緩和を認めなかったことが、なぜ、二一〇条を厳格に文字どおり解釈しなければならない根拠となるのであろうか。けだし、上告人らの主張は、本件のような自己株式の取得は、いわば一過的な形だけのもので、その取得自体に実質的な意味はないから、かかる自己株式の取得をもって二一〇条違反の行為と解すべきでないというだけのものであって、同条の規制緩和の問題とは何ら係わりがないからである。
なお、原判決は、上告人ら主張のように解し、会社の取締役に自己株式を取得しうる判断権を付与するときは、その濫用や誤判断の弊害が無視しがたくなるとともに、遂には脱法行為が横行し、立法の趣旨を没却する結果を招来することにもなりかねないと判示しているが、全く理由がない。二一〇条違反の自己株式取得というべきかどうかは、同条の解釈問題であり、そこには自ら客観的な基準があるのであって、会社の取締役の個人的見解に左右されるものでないことは当然であり、上告人らのごとく解したからといって、判断権の濫用や誤判断を招く余地はなく、したがって、脱法行為が横行し、立法の趣旨が没却されるなどということはありえない。それゆえ、右判示は、薄弱な論拠をもとに結論を断ずるものとして違法たるを免れない。
第三点 原判決の訴外会社の損害についての判断には、理由不備または、理由齟齬の違法があり、かつ、その事実認定には、経験則若しくは採証法則違背があるか、または、審理不尽、理由不備の違法がある。
(判断の違法について)
一 原判決は、理由三3(三)において、三池開発が、昭和五〇年一二月二五日に、戸栗から訴外会社の株式一、五五〇万株を総額八二億一、五〇〇万円で買い受けたうえ、昭和五一年一月から同年三月末日までの間に、これらの全株式を三井物産その他の関連会社等に総額四六億六、三四〇万円で売り渡したことを認めながら、(1)三池開発は、訴外会社の一〇〇%子会社であったのみならず、(2)三池開発による右株式の買受け及び売渡しはすべて親会社である訴外会社の指示と計算によって行われたものであること、(3)三池開発が戸栗から買い受ける訴外会社の全株式を可及的短期間内に三井物産その他の関連会社等に売り渡すことは、訴外会社の取締役であった上告人らの間で、当初から明確に予定されていたものであり、三池開発による右株式の買受け及び売渡しはすべて右予定に基づいて行われたものであることを理由として、訴外会社は、本件自己株式取得の結果、右株式の買受け代金の総額とその売渡し代金の総額との差額に相当する三五億五、一六〇万円相当の資産の減少が生じ、これと同額の財産上の損害を被ったものと解すべき旨判示している。しかしながら、右(1)(2)(3)の理由をすべて斟酌しても三池開発に生じた資産の減少が訴外会社の資産の減少すなわち損害となると解すべき理由は全くなく、原判決は結局判決に理由を備えない違法があるものであって、この点だけによっても破棄を免れない。
二 (一) まず(1)の理由についてであるが、三池開発は、訴外会社の完全子会社であるが、原判決も認めているように、訴外会社とは全く別個の法人であるから、自らの機関を備え、自らの資産を所有し、自らの目的に副って営業活動を行っていたのである。そして三池開発の資産と訴外会社の資産とは、それぞれの会計帳簿上明確に区別されていて、何ら重複混同がなかったことはもちろん、事実上も両資産が混同して扱われることはなかった。したがって、三池開発の資産が減少したからといって、そのことが当然に訴外会社の資産の減少になるわけのものでないことは明瞭である。
もっとも、原判決は、完全子会社の親会社が、子会社の株式を通して子会社の資産を支配している関係にある点に着目して、子会社の資産は実質上親会社の資産と一体をなし、したがって子会社の資産の減少は、これを親会社の資産の減少と同視し得ると考えたのであるかも知れないが、それはもっぱら経済的な観点に立っての見解にすぎず、法律的な意味において子会社の資産の減少が直ちに当然に親会社の資産の減少ないし損害になると解すべき論拠とはなり得ない。
(二) 次に(2)についてであるが、前述したように、会社の計算によってとは、損益が会社に帰属することをいうのであるから、「訴外会社の計算によって右株式の売買が行われた」とは、「右株式の売買は、それによって生ずる損害が実質的経済的には結局訴外会社に帰属することを訴外会社も三池開発も諒承の上で行われた」という趣旨であるとすれば、必ずしも当らないとはいえない。しかし、なぜそのことによって、三池開発に生じた資産の減少が法律上訴外会社の資産の減少ないし損害になるのかについては、原判決は何ら説示するところがなく、理由不明である。
(三) (3)は、会社の資産の減少とは、いうまでもなく、ある時点における会社資産の総量がそれ以前の総量に比較してより少なくなった状態を意味し、その状態が誰のいかなる行為によってもたらされたか、それが誰の予定通りの結果であったか、なかったかは、資産減少の原因ないしこれに関与した者の意図の問題であって、資産の減少それ自体とは当然区別されるべきである。ところで、今ここで問われているのは、訴外会社に果して資産の減少ないし損害が生じたか否かという客観的事実であって、その原因や原因を与えた者の主観的意図ではない。また、もし右原因や意図が訴外会社に資産の減少ないし損害が生じたと解すべき根拠になるというのならば、なぜそれが根拠になるのかの理由を説示すべきであって、その説示のない原判示は、甚だ曖昧で理解し難い。
(四) 要するに、前記(1)ないし(3)の事実は、その一つ一つはもちろん三つを総合しても、訴外会社に判示の資産減少ないし損害を生じたと解すべき根拠にはなりえないこと明白であるから、原判決は、明らかに理由不備の違法があるものである。
(事実認定の違法について)
三 原判決は、理由三2(一八)において、昭和五〇年一二月三日の常務会では、訴外会社の全額出資の子会社であり、訴外会社の遊休地を譲り受けこれを利用して遊園地やゴルフ場を経営することを事業の内容としていた三池開発が、当時地価の高騰によって含み資産が巨額なものになっていると見込まれたところから、とりあえず同社に一、五〇〇万株全部を戸栗の要求する価額で買い取らせ、同社に戸栗からの買取り価額と将来の三井グループ各社に対する売渡し価額(時価)との間の数十億円にのぼると見込まれる差損を負担させる「形式のもとに、実質的には訴外会社が右株式を全部買い取る」ことを決定した旨、及び、「右常務会の構成員は、戸栗からの右各株式の買取りにより、三池開発ないし訴外会社に訴外会社の当時の資本金額を上廻る高額の資産の減少が生ずるであろうことを充分に予測し、覚悟していた」旨を、(二五)においては、戸栗に対する支払代金の資金手当は、三池開発の不動産を処理することなく他からの借入金によってまかなわれたが、「これらの資金はすべて訴外会社が自ら三井銀行等から借り受け、これを三池開発に貸し付けて戸栗に支払うという方法で行った。そして、これらの処理は訴外会社の経理部がその一切を担当し、右資金の三井銀行等への返済もすべて訴外会社の経理部において行った」旨を認定し、理由三3(三)において、三池開発による右株式の買受け及び売渡しはすべて親会社である訴外会社の指示と計算によって行われたものであることを認定している。
右各認定のうち、理由三2(一八)の「 」の部分は原判決が第一審判決の認定に付加したもの、(二五)の「 」の部分は原判決が第一審判決の認定を改めたものであり、理由三3(三)の部分は原判決が第一審判決の理由を改めるについて新たに付加したものである。
四 右理由三2(二五)の「 」部分の第一審判決の認定は、「これらはすべて訴外会社の経理部が担当して三池開発の名前で金融機関等から借入れを行い、またこれら借入金の返済も訴外会社の経理部がその処理を担当した。」となっていたのであるが、これが原判決によって前記のように改められ、かつ、(一八)の「 」部分の認定及び理由三3(三)の前記認定が新たに付加されたのである。
以上の経緯を総合すれは、原判決が第一審判決の事実認定を変更した主な理由が、(1)前記常務会において、戸栗から訴外会社株式を買取るのは、名義は三池開発であっても実質的には訴外会社とすることを決定したこと、(2)右株式の買取りによって生じる高額の資産の減少は三池開発のみに生ずるのではなく、三池開発ないし訴外会社に生ずるであろうことを常務会の構成員が予測し、覚悟していたこと、(3)戸栗に対する支払代金の資金手当は訴外会社が自ら三井銀行等から借受け、これを三池開発に貸付けるという方法で行い、右資金の三井銀行等への返済もすべて訴外会社の経理部で行ったこと、したがって、(4)三池開発による訴外会社株式の買受け及び売渡しは親会社である訴外会社の指示と計算によって行われたものであることという諸点にあることは極めて明白である。
しかしながら、原判決の右のような認定は、経験則若しくは採証法則に違背するか、または、理由齟齬若しくは審理不尽、理由不備の違法があるものであって到底許されない。
五 原判決が右(1)(2)(3)のように認定を変更したのが、(4)の結論を導き出すためであったことは明らかであるが、前述したように、(1)の誰が買主であるかということは誰が損失を負担したかの問題であって、言葉の上だけで、形式とか実質的とかいっても始まらないのであるし、(2)は、巨額の含み資産がある三池開発に差損を負担させる目的でした訴外会社株式の買受けについて訴外会社自身に資産の減少が生ずることがあり得るかという問題であり、(3)の資金手当が誰の名前でなされ返済されたかということは事実認定の問題であっても損益の帰属を離れて論ずることはできないのであって、結局のところ、これらはすべて(4)の三池開発による訴外会社株式の買受け及び売渡しが誰の計算すなわち損益の帰属のもとに行われたかということに帰するのである。
六 原判決も認めているような訴外会社の当時の資本金額を上廻る高額の資産の減少すなわち損失(差損)について、訴外会社が何らの損金処理を伴うことなくこれを経理処理し得ないことは経験則からいっても明らかであるが、原判決は訴外会社が右資産の減少を損金処理していないことを自ら認めているにも拘らず(理由三3(四)(2))、本件訴外会社株式の買受け及び売渡しは訴外会社の計算においてなされたものとしているのであって、原判決には理由齟齬の違法あるものというべきである。もっとも、右損金処理についての原判決の判断は、右資産の減少は訴外会社の経費であり、当該事業年度の損金として処理されるべきであるとの上告人らの主張に対してなされたものであったため、計算の意義について深く検討することなく、三池開発と訴外会社のいずれにも右資産の減少を損金として計上したことを認めるに足りる証拠はないとして上告人らの右主張を排斥したのであるかも知れないが、前述のように、訴外会社株式の買受け及び売渡しが三池開発と訴外会社のいずれの計算においてなされたかという問題は、結局のところ、その損益がいずれに帰属するかということに帰し、訴外会社の当時の資本金額を越える巨額の損失(差損)について会社のいずれを問わず何らの損金処理をすることなくこれを経理処理することがあり得ないことからすれば、原裁判所において全証拠を検討しても右資産の減少がいずれの損失として損金処理されているかを明らかにできなかったのであれば、原裁判所としては、釈明権を行使して右資産の減少がいずれの会社において損金処理されているかを明らかにすべきであったのである。しかるに、原判決は、この挙に出でることなく、右損失が三池開発と訴外会社のいずれに帰属するかを明らかにしないまま、訴外会社株式の買受け及び売渡しは訴外会社の計算によってなされたものであるとし、訴外会社は右資産の減少によってこれと同額の財産上の損害を被ったとしているのであって、原判決に審理不尽、理由不備の違法があることは極めて明白である。
七 右(1)は、このような決定が常務会でなされたことを窺わせるに足りる証拠はなく、原判決の認定は虚無の証拠によってなされたものであるが、この問題は損失の帰属が明らかになれば自ら明らかになる問題であって、損失を負担しない訴外会社が実質的に買主になるなどということは全くあり得ない。
(2)も、損失を負担しない訴外会社に資産の減少が生ずることはあり得ず、常務会の構成員がこれを予測し、覚悟するなどのことは全くあり得ない。
(3)は、三池開発が訴外会社の保証のもとに借り受けたものであって、第一審判決の認定の方が正しい。もっともこの点については、上告人有吉新吾の原審本人尋問における供述に多少誤解を受けるような発言も見られるのであるが、資金をどう調達するかなどということは本来経理部員の仕事で、社長がいちいち知ることではないのであるから、その片言隻語をとらえて憶測するのは誤りであり、若し疑問があれば当事者にこれを釈明すべきであったというべきである。そのうえ、原判決は、右資金の返済もすべて訴外会社の経理部において行ったなどと曖昧な判示を加えているのであるが、原判決の前記認定からすれば、その意味は、右資金の返済は訴外会社がしたので、同額の金員が、訴外会社の損失となったということか、または、訴外会社の三池開発に対する債権として残っているということか、そのいずれかであるというわざるを得ない。しかし、そのいずれであっても、そのような事実は全くなく、これを認めるに足りる証拠もないのであって、原判決が虚無の証拠によって事実を認定したとの非難を免れることはできない。そして、若しそのような事実があるとすれば、損金処理または債権として訴外会社の計算書類に表われて来なければならないのであるが、そのようなことがないことは弁論の全趣旨からしても認められるであろう。原判決が、審理不尽、理由不備の違法を犯し、採証法則に違背したものであることは明らかというべきである。
第四点 原判決の自己株式取得と損害についての判断は、法令の解釈適用を誤った違法がある。
一 原判決は、理由三3(四)(1)において、本件自己株式の買受け代金額とその売渡代金額との間に差額があることによって生じた資産の減少は、本件株式の取得自体によって生じたものでないから本件の損害ということはできないという上告人らの主張を排斥しているが、全く理由がない。
商法二一〇条の規定は法律政策に基づいて技術的に設けられた規定であって、これに違反した場合の効果はその取引を無効とすることにあり(最判昭和四三年九月五日民集二二巻九号一八四六頁)、同条に違反して自己株式を取得したと仮定しても、その取得自体によっては、会社になんらの損害も生じないのである。このことは、仮に訴外会社が自己株式を取得してこれをそのまま保持している場合を考えれば明らかである。また、仮に自己株式を取得し、これを取得価格より高価で処分したとしたら、会社に利益を齎したといえても損害を生じたとはいえないはずである。このように、自己株式を取得したことにより利益をあげたとか、これを保有したままだとか、または同値で処分したとかの場合がありうるのに、たまたま買値より安く売ったからといって、これを自己株式の取得と相当因果関係に立つ損害を生じさせたものというをえないことは、余りにも明白というほかはない。
二 相当因果関係があるというためには、一定の前提事実から社会観念上通常生ずる関係にある場合をいい、一定の事実からの場合もの場合も生ずるときは、たまたまが生じたとしても、これをもって相当因果関係に立つであるということはできない。これを本件についていえば、自己株式を取得して損害を受けたのは、高く買って安く売ったためであって、自己株式だからその損害が生じたというのでは断じてない。高く買って安く売れば、いかなる株式ないし物の場合でも損害を生ずる理であり、この場合その対象物が自己株式であるということには、なんら特別の意味はないのである。原判決は、自己株式を取得してこれを処分した結果生じた差損が、いかにも自己株式を取得することによって生じたものとして、ことさらに自己株式取得という違法行為を犯したことに起因する損害であるかのように印象づけようとしているが、全く理由がない。
三 本件において、自己株式を高く買って安く売ったため会社に損害を生じさせたとするときは、上告人らが会社に対しかかる損害を与えたことが、上告人らの善管義務ないし忠実義務違反の行為に該当するかどうかという問題として審議されなければならないのであって、自己株式を取得したことによって損害を与えたものとして論議されるべきものではない。そして、本件において、上告人らの行為が忠実義務等に違反して会社に損害を与えたかどうかを問題とするときは、ひとり自己株式の取得価格と処分価格との差額を考慮するだけでは足りず、上告人らの行為によって会社に上告人ら主張のごとき利益が生じたかどうかをも審理しなければならないのである。
四 原判決は、上告人らが当初より自己株式を関連会社に売却することを予定してこれを取得し、予定どおりこれを三井の関連会社に転売したのであるから、その取得と売渡しとは、主観的にも客観的にも、密接不可分の関係にあり、取得価格と売渡し価格との差が生ずることも、当初より十分に予測していたのであるから、その差額は、自己株式取得と相当因果関係のある損害といえると判示しているが、抑相当因果関係の有無は、客観的要件の問題であって、これに主観的要素をいれる余地はないのであるから、主観的に転売を予想して取得したからといって、その故に取得価格と処分価格との差額を自己株式取得による損害であるということはできない。前述のように、自己株式の取得によっては損害を生ずる場合があると同様に、利得を生ずる場合もあるから、当初より廉価で転売を予想しているからといって、かかる主観的要素を加味して、その間に相当因果関係があるとするのは、違法である。
第五点 原判決の損益相殺についての判断は、法令の解釈適用を誤ったか、少なくとも理由不備の違法がある。
一 原判決は、理由三3(四)(3)において、商法二六六条一項五号所定の違法行為による損害額の算定に当り損益相殺の対象となるべき利益は、(1)当該違法行為と相当因果関係のある利益であるとともに、(2)商法の右規定の趣旨及び当事者間の衡平の観念に照らし、当該違法行為による会社の損害を直接に填補する目的ないし機能を有する利益であることを要するとして、上告人らの損益相殺に関する抗弁二の主張を排斥した。しかし、その判示は全く理由がない。
二 まず(1)の相当因果関係論についてであるが、本件は、上告人らが、構造不況により長年にわたって衰退を続けていた訴外会社を再興させるために三井セメントとの合併を計画実行してきたところ、最後の土壇場になって大株主の横暴ともいうべき戸栗の反対にあい、さりとてその機を失することは到底不可能であるので、やむなく戸栗の要求を入れ、その持株を三池開発に買い取らしめたもので、それはひとえに訴外会社およびその株主ならびに多くの従業員等の利益を願って行ったものである。その結果おおむね上告人らが予想し計画した通りの経緯で三井セメントの合併の達成をはじめとする上告人ら主張の幾多の利益を訴外会社にもたらすことができた。
およそ、経営者は特定の行為により派生するであろうあらゆる将来の事象を想定し、会社の将来の利益のためには右の特定の行為に出る必要があると信ずる場合には、表見的に多少の犠牲を払ってもこれを敢行すべきものであり、かかる所為こそ忠実義務を果たす所為なのであり、特定の行為の直接の結果において財産的マイナスを生じても、経営者の右の行為は、経営判断の原則により正当として評価されるべきものである。そして、上告人らの自己株式取得により大局的に会社に莫大な利益を齎したのであるから、本件においては、損益相殺の理論によりこれを考慮すべきを当然としなければならない。しかるに、原判決は、上告人ら主張の利益は、本件株式の売買自体を直接の原因として取得されたものではなく、他の諸々の事実と相まって取得されたのであるから、右売買と利益との間に相当因果関係はなく、したがって、右利益はこれを損益相殺の対象たる利益として考慮すべきではない、としているのであるが、取締役の業務執行行為がもっぱらその行為だけによって所期の成果を挙げ得ることはむしろ例外であって、他者の協力や事情の進展変化等諸々の事実と相まって初めて所期の目的を達し得るのが一般である。そして、取締役が業務執行行為の成果を事前にどれだけ正確に見透し、かつ、どれだけ適切な時期に決断実行したかが経営判断の適否の問題として問われるのであって、その成果がその行為だけによって直接に得られたか否かの如きは、およそ問題にならないのである。
民法四一六条は、損害賠償の範囲につき相当因果関係の原則を規定したものとされているが、同条第二項は、損害が「特別ノ事情」によって生じた場合でも、当事者がその事情を「予見シ又ハ予見スルコトヲ得ヘカリシトキ」は、その損害をも賠償すべき旨規定している。そこで、もし損益相殺の対象となるべき利益についても右規定が類推適用されるとすれば、本件の場合において、上告人らが本件株式の売買の際予見しまたは予見し得たであろう事情によってもたらされた会社の利益は、これを損益相殺の対象たるべき利益と解すべきことになるのである。そして、右利益が仮に特別の事情により生じたものであったとしても、それらの事情の大部分は、右株式の売買当時上告人らが予見しまたは予見し得べかりしものであったことが明らかであるから、右利益は、前記規定の類推適用により、損益相殺の対象となるべき利益とされなければならない。しかるに、原判決が上告人ら主張の利益は右株式の取得との間に相当因果関係がないとの理由で損益相殺の適用を否定したのは、損益相殺に関する法令の解釈適用を誤ったか、少なくとも理由不備の違法があるものである。
三 次に(2)の判示についてであるが、同所でいう「商法の右規定」とは、商法二六六条一項五号をさすものと解されるが、そうだとすれば、同規定は、単に、取締役が法令定款の違反行為をしたときは、それにより会社の蒙った損害額の賠償責任を負う旨を定めているにすぎないから、損益相殺の対象となるべき利益は、「当該違法行為による会社の損害を直接に填補する目的ないし機能を有する利益であることを要する」などという判示のような解釈が右規定から導き出されるはずはなく、判旨は全く不可解である。
また、「当事者間の衡平の観念に照らし」の趣旨も、およそ不明である。一体右にいう「当事者」とは、誰と誰をさすのか。この用語の通常の意味では、「本件当事者」すなわち上告人有吉外五名と被上告人水野ということになるが、この両者間の「衡平の観念に照らす」とはそもそもどういう意味か、また、「照ら」せばなぜ原判示のような解釈になるのか、一切不明である。
上告人らは、訴外会社の経営首脳として同社の経営の立直しに心血を注ぎ、残された最善策として三井セメントの合併を選択し、その成就のためのやむをえない手段と信じて重大な決意の下に本件株式の取得に踏み切ったのであり、その意図がもっぱら株主、会社債権者および多数従業員らの負託に応えようとしたものであることは、原判決もこれを否定していない。他方、被上告人は、右株式の売買当時訴外会社とは全く無縁の人であったのに、たまたま同社に自己株式取得の疑いがあることを知るや、その取得後すでに二年も経過していたことを承知の上で、あえてこれを訴訟問題化しようと考え、その目的のためわざわざ現行法下では一単位にすぎない同社の株式一、〇〇〇株を取得して株主となり、法定期間の経過を待って直ちに上告人らに対し本訴を提起してきたものである。そして、以上の経緯と訴提起後における同人の言動等とに照らせば、同人の本訴提起の真の目的が、会社財産の回復をはかることそのことにあったのではなく、同人個人の単なる売名宣伝にあったことは、ほとんど疑いを容れないのである(上告人らの権利濫用の抗弁は容れられなかったが、少くともその疑いがあることは第一、二審とも認めている)。
以上の諸事実を念頭に置いて、上告人らと被上告人との間の「衡平の観念に照らす」ならば、上告人らの会社に対して支払うべき損害賠償の額を算定するにつき、上告人らが会社にもたらした損益相殺の対象となるべき利益の範囲を、なぜ判示のように甚しく制限して解釈すべきことになるのであろうか。むしろ右利益の範囲を巾広く認め、それとの損益相殺により上告人らの損害賠償義務を全免し、またはできるだけ減額することを考慮するのが、真の意味での「当事者間の衡平の観念」に合致するものではないだろうか。原判決が法令の解釈適用を誤ったことは極めて明白といわなければならない。
四 なお、原判決は、本件自己株式の取得及びその転売後、訴外会社が上告人ら主張のごとき利益ないし成果を挙げており、その点で上告人らに功労があったとすれば、訴外会社がそれに相応する賞与、退職慰労金等の支給や表彰等をもって報いるをもって足り、右の利益ないし成果自体をもって損益相殺の対象として斟酌すべきでないとしている。確かに、法律上損益相殺の対象となるには、その数値が金銭的に算出できるものでなければならないであろうが、自己株式に関する出費が上告人ら主張のごとき利益ないし成果を齎したとされる限り、その出費全額が当然に上告人らの負担すべきものということはできず、その利益ないし成果を斟酌して上告人らの責任の有無限度を決すべきである、という意味において上告人らは損益相殺の主張をしたのであり、原判決は、その趣旨を誤解して判示しているというのほかはない。なお、原判決は、上告人らにその主張のごとき利益ないし成果を挙げたことに功労があったとすれば、訴外会社がそれに相応する報奨等をすれば足りるというが、にわかには受入れ難い議論である。会社のためにした一個の行為が、一方において会社に損害を加え、他方において会社に利益を与えたとされる限り、その損得を総合して会社に帰すべき損得の数値を出すを当然とし、生じた損害につき賠償を命じ、生じた利益につき別途表彰するというがごときは、全くの矛盾である。
(結語)
五 原判決は、本件における会社の損害額を算定するには該当行為と相当因果関係にあるもののみに限定すべきであるとしている。しかし、相当因果関係説が仮に一般には当然であるとしても、特別に自己株式の取得禁止が法定されている場合に、これに違反したときは結果について制限をする必要がないものとも考えられる。あるいはマイナスについては行為者に思わざる結果を負わしめないためにこのような制限を付することが妥当であるとしても、少なくともプラスの面についてはかかる配慮をする必要は亳もないから、苟も現実に発生した利益はすべてこれを考慮に入れるべきである。ことに本件の場合には、このような利益を行為者がすでに行為の当時においてこれを希望し、そのうえ進んで計画さえしていたのであるから、これを全く考慮に入れないのは一層妥当を欠く。
思うに判決なるものは当該事案についての裁判所の法的判断である。したがって、判決が当該事案の解決として妥当でないならば、たとい在来の判例や学説を以て装いをこらしても、そのような理由づけは全く無意味であって、そのような場合には別に新しい理論を改めて考え出すほかないのである。もっともこのようなことを要求するのは裁判官に対して過度のものと考える向きがあるかもしれないが、少なくとも最高裁の判事に任命されている方々に対しては決して無理な要求とは思われない。
本件の大筋は、上告人有吉自身がその上告理由書で述べているように、名門三井鉱山が経済の変遷によって昔の名門から漸次下降していくのを防止するため、様々の苦心をこらしたのであって、彼の行為が仮に自己株式取得の違法行為にあたるとしても、他方において今日会社は立派に立ち直って、関係者その他に対し利益こそ与えているが、損害は何一つ与えていない。しかるに、原判決は、本件上告理由書において詳細に述べているように、幾多の問題点や疑問点があるにもかかわらず、あるいは問題点に目をそらせ、あるいは納得しがたい理由を展開し、私心なく会社のために行動した上告人有吉らに対し、違法行為による莫大な損害賠償を命じているのは余りにも不条理というほかない。
原判決もこの点においていささか気がひけたためか、それならば、上告人らの功績に対し別途、酬いればよいと付言しているが、もしそうすることが当然であると原判決が考えているのであれば、上告人らの損害賠償責任について何らかの考慮を加えないのがますますおかしいと思われる。
よって、原判決破棄の裁判を求める次第である。